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とびだせどうぶつの森 QRコード置き場

ここにはおもに『とびだせどうぶつの森』でネオジオキャラになりきるためのマイデザイン用QRコードや、SNK関連の二次創作テキストなどを置いています。髪型や髪色、瞳の色については『とびだせどうぶつの森』の攻略Wikiを参照してください。

『上海にて ――武神過江』

二次小説 KOF


 シェン・ウーは死んだ。

      ◆◇◆◇◆

 そんな噂が上海の路地裏に流れ始めたのは、ここ半月ほどのことだった。
ザ・キング・オブ・ファイターズ”に出るといって上海から姿を消したきり、行方が知れなくなったのである。
 もちろん、シェンはこの街に定住しているわけではないし、ここが生まれ故郷だという話も聞かない。だから、シェンがかならず上海に戻ってこなければならない理由は、実はどこにもなかった。
 だが、これまでのシェンは、どこかよその土地でひと暴れしたとしても、しばらくすると上海に戻ってきて、地元のヤクザたちと壮絶な殴り合いをしたり、顔見知りがやっている店で只メシを食らったり――つまりは、ふと気がつくとこの魔都の風景の中に立ち戻り、いつの間にかそこに溶け込んでいるような、そんな男だった。
 そのシェンが、ずっと戻ってきていない。
 代わりに、シェンは大会のあとで何者かと闘い、敗れて命を落としたのだという噂が、まことしやかに流れ始めていた。
 何しろあちこちで人の恨みを買っている男だったから、何者かに襲われるというのは十二分にありえる話だった。上海の住人が肯首しかねる点があるとすれば、シェンが敗れたという部分だろうが――シェンの強さは街の人間たちもよく知っていた――あの男が意気揚々と引き上げてこないのが何よりの証拠だといわれてしまえば、それもそうかと納得せざるをえない。
 いずれにしろ、シェンが上海に戻ってくることはなく、死亡にかぎりなく近い生死不明のまま、時間だけがすぎていった。

       ◆◇◆◇◆

「――やっぱ殺されたんじゃねえんですか?」
 くわえタバコの男がへらへら笑っている。
 今となってはこの上海でも珍しい、運河沿いの古風な造りの酒家には、その男たちのほかにわずかに2、3人ばかり、常連とおぼしき客の姿があったが、いずれも男たちの耳障りな声に顔をしかめていた。
 が、さりとて誰もそれを注意しようとしないのは、その男たちが黒社会の人間だったからだろう。
 運河の上を吹き渡る風には夕暮れ時ならではの冷ややかさがあった。はるか西の彼方へと沈んでいく夕陽の赤さが目に染みるようだったが、酒を飲んででき上がるには、まだいささか早すぎる時間帯かもしれない。
「俺もウワサで聞いただけなんですがね、そのスジじゃかなり名の知れた殺し屋だっていうじゃないっすか」
「ほう」
「さすがのシェン・ウーも、伝説の殺し屋にはかなわなかったみてえで、はい」
「そもそもよ」
 スーツ姿の兄貴分が、紹興酒のグラスを置いて下卑た笑いをもらした。
「――周りがいうほど強ェ野郎でもなかったってことじゃねえのか? 会長はヤツを買いかぶりすぎだったんだよ」
「けど、大哥――」
「俺が上海にいりゃあ、そもそもそんなチンピラにデカいツラぁさせなかっただろうぜ」
 男は懐から黒光りする金属塊を取り出してちらつかせ、酷薄そうな唇を吊り上げた。
 男たちは新安清会の構成員だった。
 新安清会は、上海でも指折りの黒社会――マフィアである。直接的な暴力によって勢力を拡大するのではなく、企業を相手取った詐欺や恐喝、密輸品の取り引きなどをおもな資金源とする、典型的な経済マフィアだが、だからといって、その内部に武闘派がまったくいないわけではない。
 先ほどから威勢のいいことをいっているスーツ姿の男は、金の力だけでは屈服させられない相手を“排除”することを仕事としていた。数年前、対立組織の幹部の事故死を“演出”したあと、その報復を避けるため、長く上海を離れていたのである。
 香港や澳門、アメリカなどを転々としながらほとぼりが冷めるのを待っていた男が、あらたな仕事のために上海へと呼び戻されたのは、つい3日前のことだった。
「会長も無駄な金を使ったもんだ。俺にひと声かけてくれさえすりゃあ、チンピラのひとりやふたり、すぐにでも片づけてやったモンを……」
 トカレフのコピー品を懐にしまい込み、スーツの男は弟分がついでくれた紹興酒をまたひと息にあおった。
「ですがね、奴の始末を依頼した殺し屋ってのも、結局はそのまま行方知れずだって話ですよ。報酬を受け取りにこなかったってんで、奴と相討ちになったんじゃねえかって――」
「何だよ、すっきりしねえ話だな。それじゃ野郎がまだ生きてるって可能性もあるのか?」
「さあ、そこまでは俺らにも――」
「生きててくれたほうが面白ェな、おい?」
「はあ……」
 弟分たちは顔を見合わせて曖昧に苦笑した。兄貴分の吹聴する武勇伝の数々は、この3日間で耳にタコができるほど聞かされている。うんざりさせているというのが正直なところだろうが、だからといってそれを表情に出したりしたら、態度が悪いというだけで半殺しにされかねない。多少の誇張はあるにせよ、この男がいくつもの死線をくぐり抜けてきたことだけは事実なのである。
「――どっちにしろ、地上げの手伝いなんてケチな仕事は俺の役目じゃあねえ」
 空になったショットグラスを逆さにしてテーブルの上に伏せ、男は立ち上がった。
 男には、腕と度胸だけでこの世界を生きてきたという自負がある。そんな自分が、遅々として進まないこの下町の地上げの片棒を担がされるということが、男には――たとえ会長の指示であろうと――納得がいかなかった。
「さっさとすませるにかぎるぜ」
「大哥――」
 アルコール臭い吐息をもらし、男はスーツの懐に右手を差し入れたまま、店の奥の空いている席で雑誌を読んでいた老人へと歩み寄った。弟分たちが思わず引き止めようとしていたが、男の動きにはいささかの遅滞もない。
「ひっ――」
 これから何が起こるのかを察したほかの客たちが、押し殺したような悲鳴をこぼして店から逃げ出していく。
「おい、じじい」
 男が横柄に声をかけると、老店主はゆっくりと視線を上げた。しかし、男の右手が懐で何を握っているか、それが判らないはずもないだろうに、愛想のないその表情に変化は見られなかった。
「ま、まずいっすよ、大哥!」
「黙ってろ。……おまえらはぬるいんだよ」
 会の中には、直接的な暴力によって問題を解決する時代は終わったと主張する者も多い。だが、男はその考えに納得できないタイプの人間だった。
 男は、黒社会が当局の取り締まりを恐れて暴力を捨てたら、それはもう黒社会ではないと考えている一方で、そういう武闘派的な自分の気質が、今の会の中で浮いているということも承知している。
 しかし、だからこそ男は、自分のやり方を曲げるつもりはなかった。企業ゴロに成り下がった新安清会の中で、自分だけは絶対に変わるまいという強い信念が、銃のグリップを握る男の手に迷いをあたえなかった。
 だが、男の指が中国製のトカレフの引鉄を引くことはついになかった。
「……お……ぁ……」
 銃を握った手を懐から出す寸前、男は前のめりに身体を折り、そのまま崩れ落ちた。
「大哥!」
「てめえ……!?」
 舎弟たちは、おそらく我が目を疑ったに違いない。老店主と自分たち以外にひとりの客もいなかった店内に、この男はいったいいつやってきたのか――そして何より、この男は何者なのか。
「……威勢がいいのはかまわねえがよ……」
 兄貴分のみぞおちに痛烈な一撃をめり込ませた男は、包帯のせいでくぐもった声で舎弟たちにいった。
「ここが誰の庭か……まず確かめておくべきだったんじゃねェか?」
「……!」
 まるで何かに駆り立てられるように、舎弟たちはナイフを引き抜いた。すでにトカレフを握っていた兄貴分が、引鉄を引く暇もあたえられずに昏倒した事実を黙殺し、目の前の謎の男に襲いかかる。
「……アタマ悪ィな。そのへんの野良犬でもよ、自分と相手と、どっちが強ェかってことぐらい、一瞬で悟るってのに――」
 厚く巻かれた包帯によって完全に顔を隠された男が、そうひとりごちて笑った。
 表情は見えないのに、それは明らかに猛獣を思わせる笑みだったと、のちに老店主は述懐した。

      ◆◇◆◇◆

「――ユンサンが入院?」
 施術台に寝そべったまま、カイコーはスマートフォンに向かって声を大にした。
「奴はこの前出所してきたばかりじゃないのか?」
『それが、誰かに闇討ちされたって話で……いっしょにいた連中も病院送りにされて、半年は出てこられないようです』
「いいザマだが……それで、会長は何と?」
『そのことなんですが……会長は、カイコーの兄貴がやったんじゃないかって』
「何だと!? 俺がやった?」
 さらに声が大きくなり、ふくらはぎをマッサージしていた女が思わず離れたのが判った。
「……続けろ」
 首をねじって女を見やり、カイコーは低い声でいった。
「は、はい……」
「…………」
 女がふたたびマッサージを始めると、カイコーはうつ伏せの姿勢に戻り、小さく嘆息した。
「……それは確かにまずいな」
 カイコーは新安清会の幹部のひとりである。病院送りになったという武闘派のユンサンとは逆に、暴力に頼ることなく組織に莫大な利益をもたらすタイプの、いわばスマートなマフィアだった。ユンサンよりずっと若いが、ユンサンが上海を離れている間に会長の信頼を得て、今では実質的な組織のナンバー3の地位に就いている。
 それだけに、古いタイプのユンサンとは馬が合わず、いずれは衝突するかもしれないと、周囲の人間だけでなくカイコー自身も懸念していた。
 とはいえ、カイコーは自分からユンサンに仕掛けるほど馬鹿ではない。実際、ユンサンが闇討ちされたと聞いて、少なからず驚いてもいた。ユンサンが誰かを闇討ちしたというならまだしも、逆に闇討ちされるのを許すほど、ユンサンは甘い男ではないからである。
「どこが気に入っているのか判らんが、会長はユンサンに昔から目をかけている。あの昔気質なところがいいのかもしれんが……いずれにしろ、やってもいないことで会長の不興を買うのはつまらん。今夜にでも会長のところへ行くぞ。土産を用意しておけ」
『はい』
「それと、この件は俺とユンサンの共倒れを狙ったほかの幹部の仕業という可能性もある。人をやって少し調べさせろ。……会長の甥の、シューパオあたりが怪しい」
『判りました』
「…………」
 カイコーが通話を終えると、無言で控えていた舎弟がスマートフォンを受け取り、スタンドスクリーンの向こうのドアを開けて部屋から出ていった。
 いまや上海有数のマフィアの大幹部となったカイコーだが、これでもかつては香港で金融関係の仕事に就いていた男である。そこでやはりマフィアと組んでの横領に手を染め、香港から逃げ出した末に第二の人生として選んだのが、結局はマフィアの金庫番だった。おそらくカイコーには、生真面目な勤め人より、こうした日の射さない世界での生き方のほうが性に合っていたのだろう。
 そんなカイコーにとって、唯一といえる楽しみが、この「足底按摩」通いだった。無論、マッサージといってもまっとうなたぐいのものではない。それは、先ほどからカイコーの足をさすっている女の、下着が見えそうなほどに裾の短い、ピンク色のワンピースを見ればおのずと判る。
 カイコーは週に一度、この場末のマッサージ店にやってきては、まず全身の凝りをほぐしたあと、もうひとつのお楽しみにふける。舎弟を部屋から下がらせたのも、そろそろ本格的に楽しむつもりだったからである。
「ふふ……」
 首の後ろの筋肉をほぐしている女の腰が、ちょうどカイコーの目の前にやってきた。
「……ん?」
 カイコーが手を伸ばしてワンピースの裾をめくろうとした時、不躾にドアがノックされた。
 ドアの向こうの待合室にはカイコーの舎弟たちしかいないが、よほどのことがなければ邪魔をするなといい含めてある。それでもなおカイコーの楽しみを中断させるということは、何かそれだけの急用ということかもしれない。
 カイコーは小さく舌打ちすると、無言で女を一瞥した。
「は、はい……」
 女は緊張気味の表情でうなずき、裾を直しながらドアのほうへ歩いていった。
「……今度はいったい何だ? ボスからの連絡でなければ待たせておけ! 俺の親が死んだと連絡があっても取り次ぐな!」
 施術台に寝そべったまま、カイコーは声を荒げた。だが、その声が聞こえなかったはずはないのに、舎弟からの返事はない。女が戻ってこないのも妙だった。
 その奇妙さにカイコーがふたたび顔を上げた時、目の前にあったのは、なまめかしい女の太腿ではなく、血にまみれた大きな拳だった。
「――!?」
 カイコーは視線を上げてその拳の持ち主を確認しようとしたが、それよりも早く、顔面に熱い痛みが走った。
「ぶ、ぐぉ――」
 鼻が折れたと気づいたのは、冷たい床に転げ落ちてからのことだった。
「お、ぶ、っ……ぐ」
 鼻腔から噴き出した血が、たちまち床の上に小さな池を作り出す。息をしようとした拍子に、鼻血が気管に流れ込んで激しくむせた。
「ごっ、ごふ、げっ――」
 血の混じった唾を吐き散らして咳き込みながら、カイコーはどうにか手をついて起き上がろうとしたが、無造作に背中を踏みつけられ、すぐにまた突っ伏すはめになった。
「ふ、ぐっ……でっ、でめえ、いったい――」
「虚勢を張るのはよしなよ。腕っぷしはからっきしだって聞いてるぜ、銀行マン? これ以上痛ェ目にゃ遭いたくねえだろ?」
 くぐもった笑いとともに、今度はカイコーの横っ面が踏みつけられた。そこにわずかに込められた力が、おまえの頭などいつでも踏み砕けるのだと、無言でいっているようだった。
「……アンタの舎弟どもはあっちで全員伸びてる。ついでにいやああの姉ちゃんも、日頃の激務が祟ったのか、ソファでぐっすりお休みしてるぜ。要するに、誰もアンタを助けにきちゃくれねェってこった。――判ったかい?」
「う、ぶ、ぐ……」
 カイコーはかすかに首を揺らしてうなずいた。本来カイコーは暴力とは無縁の、いってみれば痛みにとても弱い男である。あっという間に舎弟たちを叩きのめしたであろう乱入者に、その細腕で立ち向かおうなどとは微塵も考えない。
 完全に抵抗する気力を失ったカイコーに、声の主がいった。
「おとなしく質問に答えな」
「う、あ……」
 何か布越しのようなその声を聞くかぎり、相手は明らかに男だった。ただ、相変わらず横っ面を無遠慮に踏まれているせいで、男の顔は確認できない。
「アンタ、シェン・ウーって男を知ってるか? どこぞで殺し屋にやられて死んだって噂をよく聞くが」
「……あ、ああ、知ってる」
「殺し屋を雇ってまでシェン・ウーを殺そうとしたのは、アンタのところのボスだって話を小耳にはさんだぜ。……本当かい?」
「お、俺のボスを知ってるのか……?」
「“鉄面羅漢”だろ?」
 ボスのチンワンは、よく日に焼けたスキンヘッドの大男で、上海の黒社会では“鉄面羅漢”の綽名で知られている。若い頃は腕っぷしの強い、まさに羅漢のような男だったらしいが、今はもう還暦の老人だった。
「で、どうなんだ? アンタのボスなのか、殺し屋を雇ったのは?」
「そっ、そうだ」
 カイコーはぎこちなくうなずいた。
「――それで、お、俺が、殺し屋への渡りをつけた……」
「へえ?」
「以前からシェンには、ウチの組織が進めていた地上げをたびたび邪魔されてた……それでボスは、誰かをやってシェンの始末をつけさせようと考えたんだ。そしたら、妙な小僧が俺に近づいてきて――」
「妙な小僧……?」
「ああ……腕の立つ殺し屋に心当たりがあると――その報酬が、かっ、漢方の秘薬で――かなり値が張る代物だったが、店ごと俺が買収して、小僧につなぎを頼んだ」
「なるほど……小僧が、ね」
「だ、だが、実際にどうなったのかは、俺も知らない」
 ごくりとのどを鳴らし、カイコーは続けた。のどがカラカラになって舌がもつれそうだったが、このおしゃべりが続く間はこの男もおとなしくしているだろうという、まったく根拠のない思いに駆られて、カイコーは早口でしゃべり続けた。
「シェンが死んだって噂は流れてるが、そ、その殺し屋は、いまだに、ほっ、報酬を取りに現れないんだ……」
「返り討ちにでも遭ったんじゃねえのか?」
「わ、判らない……シェン・ウーもずっと上海に戻ってきていないところを見ると、あ、相討ちになったんじゃないかと……ボスにとっては、それが一番、ありがたいんだが」
「そりゃまあ、報酬を支払わずに邪魔者を始末できりゃあ大喜びだろうな。……ところで小僧のほうはどうなった?」
「そっ、そっちもあれ以来、俺は会ってない。本当だ。もう上海にはいないのかもしれん」
「そうか」
 ひと言そういって、男は口を閉ざした。
「き、聞きたいことは教えただろ!」
 横顔を踏まれたまま、しばらく男の様子を窺っていたカイコーは、乾きかけの血にむせて派手に咳き込んだのをきっかけに、呻くようにいった。
「……もっ、もう勘弁してくれ……」
「おい、何か勘違いしてねェか?」
 どうにか靴の下から逃れようとするカイコーに、男は冷淡にいい放った。
「――オレはおとなしく質問に答えろとはいったが、答えたら許してやるなんてひと言もいってねェぜ?」
「そっ……ず、ずるいぃ!」
「なぁに、そう心配するなよ。命までは取らねェ。ただ半年ばかり医者のせわになるだろうが……ムショよりはマシだろう? 病院にゃお仲間もいるしな」
「それじゃ、おっ、おまえが、ユンサンを――!?」
「ベッドをつなげて麻雀でもやってりゃ半年なんてあっという間だろ」
 男の靴底から解放されたカイコーがかろうじて目にできたのは、顔面を目がけて真上から降ってくる拳だった。
 血に汚れた手袋の上から指輪をはめているのが奇妙で、カイコーは病院で意識を取り戻したあとも、そのことをはっきりと覚えていた。

      ◆◇◆◇◆

 新安清会のボスとして、上海の黒社会に確固たる地位を築いたクー・チンワンは、若い頃から数多くの修羅場をくぐってきただけあって、危険を嗅ぎつける嗅覚にすぐれていた。それはもう、合理的な説明などしようのない、それこそ超能力とでもいう以外にない感覚だった。
 たとえば朝起きた時、いいようのない胸騒ぎを感じれば、その日はいつもと違うルートを通ってオフィスに向かう。出発や到着の時間も予定とずらし、重要な商談の場所も直前で変更する。そのために余計な手間や出費がかさむとしても、チンワンはためらわない。
 胸騒ぎ以外に何ひとつ根拠のない、周囲から見れば単なる気まぐれとしか思えないその行動によって、しかし、事実チンワンは、交通事故やビル火災、さらにはほかの組織からの暗殺を何度も回避してきた。
 還暦を迎え、しばしば自分の半生を振り返ることの多くなったチンワンが、息子同然の甥にことあるごとにいい聞かせているのは、この世界で生き延びるために必要なのは、喧嘩の強さや頭のよさよりもまず、この嗅覚であるということだった。
「……どうしたんだ、伯父貴?」
 いっしょにリムジンに乗っていた甥のシューパオが、チンワンの冴えない表情に気づいて眉をひそめた。
「気分でも悪いのか?」
「……いいはずがなかろう」
 赤銅色に焼けた禿頭を撫で、チンワンは重苦しい溜息をついた。あれだけ繰り返し教えてやっているというのに、この甥はくだんの直感を信用しようとしない。
「――カイコーに続いてユンサン、そして今度はチェンワンまでやられたんだぞ? そんな時に、のんびりパーティー気分にひたれると思うか?」
「それは判らんでもないけど……きょうは伯父貴の還暦を祝うパーティーなんだぜ?」
 人生の節目を飾る慶事とあって、きょうのパーティーの準備には1年以上もかけてきた。上海からはいうまでもなく、香港や澳門、台湾からも、兄弟分や同業者を数多く招いている。きょうのパーティーは単にチンワンの還暦を祝うというだけでなく、クー・チンワンとそのファミリーが、上海黒社会の頂点に立ったことを内外にしめすお披露目の場でもあった。
 だが、黒社会の顔役をたちをこれだけ呼びつけておきながら、万が一にも直前でパーティーを中止するなどということになれば、チンワンの顔は丸潰れになる。同業者たちからの不興を買、新安清会が築き上げてきたものも一瞬で瓦解するだろう。
 延安高架路を行くリムジンの窓から人民広場が見え始めた頃、チンワンが口を開いた。
「高速を降りろ」
「は?」
 リムジンのハンドルを握っていたホーナンが、バックミラー越しにボスの顔色を窺った。
「下から行け。……嫌な予感がする」
 チンワンはそう繰り返し、口を閉ざした。
 リムジンは予定よりひとつ手前のジャンクションで高速道路から降りると、一般道を通って豫園商城へ向かった。きょうのパーティーは、そこの老舗レストランをまるまる貸し切っておこなわれることになっている。
 シューパオはリムジンの前後を確認し、伯父の横顔を見やった。
「……ところで伯父貴、カイコーたちをやったのはどこの組織の人間だと思う?」
 そう問われてもチンワンには答えようがなかった。
 今の地位を築くまでに、チンワンは数えきれないほどの人間から恨みを買っている。表面的には友好関係にあっても、新安清会を追い落としたいと考えている組織も多い。自分たちを狙う人間に心当たりがありすぎて、誰だと絞ることができないのである。
 だが、今回ほどチンワンの嗅覚が危機を告げたことはない。よほど厄介な相手に狙われていると考えるべきだった。
 その後、リムジンはつつがなく一般道を通って豫園商城へと到着した。このあたりが上海観光の目玉のひとつとなって久しいが、会場となるレストランの周辺にはいかつい黒服たちが目を光らせていて、その異様な空気に圧倒されてか、観光客たちの姿もまばらだった。
「――さあ、伯父貴」
 先にリムジンを降りたシューパオが、ドアを開けてチンワンをうながす。
「招待客が来る前に準備をすませてくれ。着替えは奥の部屋に用意させてある」
「ああ……」
 口数の少ないチンワンが、前後左右を護衛に守られてレストランに足を踏み入れた時だった。
 黒い排気ガスとディーゼルエンジンの轟音を響かせて、巨大なダンプがレストランの正面エントランスから突っ込んできた。
「!」
 悲鳴と怒号が交錯する中、チンワンは頭をかかえて横に飛んだ。
「――――」
 ガラスが割れる音とコンクリートが砕ける音がとどろき、もうもうと粉塵が舞い上がる。広いロビーの中央に据えられた大理石のオブジェに激突して、暴走するダンプはようやく停まった。
「会長! ご無事ですか!?」
「伯父貴!」
 あやういところで轢死をまぬがれていたシューパオが、慌ててチンワンに駆け寄った。ロビーに居合わせた会の構成員たちも、剣呑な空気を引き連れて集まってくる。
「らァ! てめェ何したか判ってんのか!?」
 ひとりの黒服が、ダンプのステップに足をかけて運転手を引きずり出そうと車内を覗き込んだ。
「――ぶっ」
 次の瞬間、黒服はサングラスを砕かれ、顔面を押さえて仰向けに倒れた。
「……せっかくボスの還暦祝いに来てやったってのに、その態度はねェんじゃねえか? まんざら知らねェ仲でもねえだろうに」
 低い笑い声とともに、ダンプのドアが内側から蹴り開けられ、あちこちに包帯を巻いた大柄な男が降りてきた。
「ほっ――包帯の男!?」
 ユンサンの舎弟から、ユンサンを病院送りにしたのは包帯で顔を隠した男だと聞いている。その男が現実に現れたのを見て、チンワンは綺麗に剃り上げた頭に脂汗をにじませた。
 顔は見えないが、チンワンはこの男を覚えている。見た瞬間にすべてがつながった。
 なぜチンワンがあれほどの危機感を覚えたのか――。
 なぜこの男が執拗にチンワンと新安清会を狙うのか――。
「そっ、そいつを始末しろ!」
 甥にすがるようにして立ち上がったチンワンは、周囲の黒服たちにうわずる声で命じた。
「――兄弟たちが来る前に始末するんだ! ここまでデカくした会を、こ、ここで潰すわけにはいかん!」
「よくいうぜ……てめェがつまらねえちょっかい出さずにいりゃあ、オレだってここまでするつもりはなかったんだがな」
 黒服たちに囲まれても、包帯の男はまったく動じた様子がない。
「――しかしよ、殺し屋まで雇ってオレの命を狙うってのは、それ相応の覚悟があってのことだろ? だったらいまさらジタバタするんじゃねえよ」
「やっ、やはりおまえ――」
「さあ、サツが来る前に始めようじゃねぇか」
 男は顔に巻かれていた包帯をほどき、にんまりと笑った。
「……リハビリにゃちょうどいいぜ」

      ◆◇◆◇◆

 ダンプで突っ込む時にはシェンひとりだったが、レストランを出る時にはふたりになっていた。
 シェンが黒いスーツの男たちをことごとくねじ伏せ、チンワンの歯をすべてへし折り、ようやく溜飲を下げた頃、かつてのチームメイトがいつの間にかダンプのかたわらに立ち尽くしていたのである。その神出鬼没ぶりは相変わらずだった。
 近づいてくるパトカーのサイレンの音を気にすることもなく、レストランの裏口から出て運河沿いの小道を歩きながら、シェンは溜息混じりに首に巻かれていた包帯を引きむしった。
「その傷……例の殺し屋にやられたのか?」
 淡々とデュオロンが尋ねる。
「おまえに半殺しにされたあのマフィアのボス……おまえに殺し屋を差し向けたといっていたが、それは以前、おまえがいっしょにチームを組んでいた西洋人のことじゃないのか?」
「まあな」
 シェンは大仰にかぶりを振り、肩を回した。
「――といっても、あのじいさんとは決着がついてねェ。いいところで崖崩れに巻き込まれちまってな。むしろそっちで死にかけた」
 あのまま続けていれば、どちらが勝利していたか――実をいえばシェンにも判らない。勝てたはずだと思う気持ちと、そうたやすい相手ではなかったという思いの双方が心の中でせめぎ合っている。
 だからこそシェンは、あの殺し屋――オズワルドとの決着をつける意味もあって、上海に戻ってきた。オズワルドにシェンの殺しを依頼した人間を締め上げれば、その行方が判るかもしれないと思ったのである。
 だが、チンワンもその配下の男たちも、オズワルドの行方は知らなかった。報酬の秘薬とやらを取りに現れなかったということは、あるいはオズワルドも、シェンと同じく崖崩れに巻き込まれたのかもしれない。
「チンワンにゃ落とし前をつけたが、じいさんのほうはな……一度アイルランドにでも行ってみるしかねェか……」
「その前に、おまえに聞きたいことがある」
 かすかに吹きつけてくる風が、デュオロンのコートの裾を重たげに揺らす。どこに出しても恥ずかしくない色男が、何の因果か暗殺者稼業に首まで浸かって、今は実の父親だか身内だかを捜していると聞いているが、どちらにしろ、シェンにはデュオロンに対して何も教えてやることなどできない。
 しかし、シェンがそう告げると、デュオロンはすぐさま首を振った。
「……ロンの話ではない」
「はァ? じゃあ何なんだよ?」
「俺とおまえの両方にかかわりのある人間などそうはいまい?」
「……アッシュか」
 シェンを殺したがっていたのはチンワンで、依頼を受けて実行に移そうとしたのはオズワルドだが、両者の間に立って仲介したのはまず間違いなくアッシュだった。シェンもオズワルドも、まんまとアッシュに乗せられたようなものである。
 となれば、アッシュにも落とし前をつけてもらわなければ不公平というものだろう。
「――詳しい話はメシでも食いながらにしようぜ。腹が減って仕方がねえ」
 腹のあたりを撫で、シェンはいった。
 さっきのレストランで、足元に転がっていた豚の丸焼きを蹴飛ばしたことを思い出し、シェンの腹が小さく鳴った。

                                ――完――