とびだせどうぶつの森 QRコード置き場

ここにはおもに『とびだせどうぶつの森』でネオジオキャラになりきるためのマイデザイン用QRコードや、SNK関連の二次創作テキストなどを置いています。髪型や髪色、瞳の色については『とびだせどうぶつの森』の攻略Wikiを参照してください。

『鬼のふたたび生まれいづること』

 

 その夏の終わり、花諷院和狆は山を下りた。
 退魔業でもなければめったに枯華院を離れることのない和狆が、骸羅を連れて人里に向かったのは、ほかならぬ枯華院の本堂の屋根に穴が開いたからである。
 もとよりひなびた山寺のこと、取り立てて飾り立てる必要はないが、さりとて本堂で雨漏りがするほどの荒れようではさすがにまずい。ただ、華美ではなくとも無駄に大きな本堂の修繕には、かなりの費用が必要になる。とても寺のたくわえや檀家からの浄財でまかないきれるものではないことは明白であった。
 そこで和狆は勧進のために諸国を回ることにした。畿内五国を順にめぐれば、ふた月ほどもあればそれなりの浄財が集まるだろう。
 そう皮算用して山を下りたのが、おとといのことであった。

 「――おい、じじい」
 日が西に傾き始めても、日没まではまだ間があり、格子戸の並ぶ通りを行き交う人々も数多い。あたりで銀や鉛といった粗金が採れるとあって、山深い飛騨にあってもっとも栄えているのがこの高山の町であろう。
 そのにぎわう通りで立ち止まり、骸羅が和狆にいった。
「ありゃあひょっとして幻十郎じゃねえか?」
「何?」
 網代笠をついと押し上げ、和狆は骸羅の指さすほうを見やった。だが、人だかりが立ちふさがっているばかりで、背の低い和狆には何も見えない。
「どこじゃ? 何も見えぬぞ」
「仕方ねえなあ」
 骸羅はぼりぼりと頭をかき、和狆をひょいと肩にかつぎ上げた。衆に抜きん出て大柄な骸羅の肩の上ならば、野次馬どもの頭越しにその先を眺めることができる。
「……むう」
 白い眉に飾られた目もとを険しくし、和狆は唸った。
「幻十郎……か?」
「だろ? まさかじじい、弟子の顔も忘れるほど耄碌したってのか?」
「馬鹿を申すな。確かに似てはおるが――じゃが、あれが幻十郎じゃと……?」
 人垣の向こうにいたのは男が七人――風体や髷から見て、そのうち六人は町民であろう。もっとも、いずれも面相のよろしくない輩ばかりで、地回りのやくざ者とおぼしい。
 そして、残るひとりは体格のいい総髪の侍――深い緋の衣に鉄紺の袴をまとった浪人者。どうやらこの男に、やくざたちが何やら因縁をつけているといった様子である。
 和狆はその浪人の顔にじっと見入った。
「……やはりよく似た別人ではないか?」
「そうかぁ? どこから見ても幻十郎そっくりだろうが」
「しかしな」
 似ているかといえば、似ている。牙神幻十郎は今でも和狆の弟子であり、その顔を見忘れるはずもない。
 だが、それでも和狆は、その浪人者が幻十郎だとは思えなかった。和狆の知る幻十郎は、いわば抜き身の刃である。殺気が人の姿を取ったような、迂闊に触れてはならない男である。
 かたや、今そこでやくざたちに囲まれている浪人からは、殺気など微塵も感じられない。胴間声をあげるやくざたちに対し、果たしてどこを見ているのか、茫洋とした視線をあたりにさまよわせている。むしろそのまなざしはおだやかといってもいい。浪人の目は、眼前のやくざたちではなく、何かもっと別の、ここにはない何かを見ているかのようだった。
 和狆は軽くかぶりを振って呟いた。
「……あれがまことに幻十郎であれば、あのやくざども、すでに血煙を上げて死んでおるはずじゃ」
「そりゃまあ……確かにじじいのいうことも判るがよ。けど、あそこまで似た別人がいるか?」
 骸羅が反駁した直後、野次馬たちが大きくざわつき、人の輪が揺れた。やくざのひとりが懐から匕首を取り出し、逆手に引き抜いたのである。心ここにあらずといった風情で自分たちの恫喝を聞き流していた浪人に、とうとうしびれを切らしたのだろう。
「これはいかぬな」
 人の多い盛り場でなら喧嘩など珍しくもないが、刃傷沙汰となれば見すごすわけにもいかない。和狆は骸羅の肩を踏み台にして、野次馬たちの頭の上をひと息に飛び越えようとした。
 が、その先途、浪人の左腕が動いた。
「ぎゃは――ッ」
「ぶ、むぐぉ……」
 男たちは匕首を振るう間もなく仰向けに倒れた。
「……!」
 刹那の修羅場である。六人のやくざ者はいずれも無造作に斬って捨てられ、すでにこと切れていた。
 やくざたちの骸を平然とまたぎ越して歩き出した浪人の左手には、血に濡れた刀が握られていた。鞘は持っていない。浪人は最初から抜き身の刀を手にしていたようだった。
「あれは梅鶯毒――するとやはり」
「幻十郎じゃねえか、ちきしょう……!」
 骸羅は擂鉢のような拳を握り締め、低い声で呻いた。
 浪人は引きずっていた刀を肩にかつぎ、何やら鼻歌を口ずさみながら歩いていく。野次馬たちの壁がおのずと左右に割れ、押し殺したざわめきと畏怖のまなざしが、何ごともなかったかのように立ち去る浪人を見送った。
「行くぞ、骸羅」
「え? あ、おう」
 和狆は骸羅の肩から飛び降り、浪人のあとを追った。

      ◆◇◆◇◆

 本来の幻十郎であれば、和狆ひとりならまだしも、骸羅もいっしょになってあとをつけていれば、すぐにでも見抜かれていたはずである。
 だが、今宵の幻十郎はそれに気づかない。あるいは、気づいているのにあえてそのままにしているのかもしれないが、いずれにしろ、つねならぬことであった。
「……確かに妙だな」
「うむ」
 その夜、幻十郎は川端の旅籠に宿を取ったが、飯盛女に手を出すでもなく、ひとり静かに酒を飲んで夜を明かしたようだった。それもまた、この男にしては珍しいことであった。
 同じ旅籠に泊まり、小遣いを握らせた下ばたらきの娘から幻十郎の様子を聞き出した和狆は、翌朝、がつがつと大飯を食らっている骸羅に切り出した。
「骸羅よ、おぬしはひと足先に山へ戻っておれ」
「はァ!?」
 束の間箸の動きを止め、骸羅は眉をひそめた。
「――いきなり何いい出しやがる、このじじい?」
「ワシは今しばらく幻十郎のあとを追ってみるつもりじゃ。おぬしは先に戻れ。……とにかくおぬしは目立ちすぎるからな」
「今の幻十郎の目にゃ入りやしねえよ。きのうだって気づかれなかったじゃねえか」
「それが気になるのじゃ。今のあやつはまるで牙を抜かれた獣のようではないか。いったい何があってあのように変わってしまったのか……」
「判らねぇな。それのどこがまずいんだ?」
 どんぶりに盛られた麦飯を漬け物と味噌汁だけであっという間に平らげ、骸羅は嘆息した。
「あの幻十郎から牙が抜けたってぇなら――へへっ、だからって神サマにゃなれねえだろうがよ、だとしても、そりゃあどっちかといやぁ、喜ぶべきことなんじゃねえか?」
「…………」
「きのうだってよ、容赦なくゴロツキどもを斬り捨てちゃいたが、ふだんなら、あいつらが因縁つけてきた時点で全員お陀仏になってたぜ? それを思えば、幻十郎もずいぶん慈悲深くなったじゃあねえか」
「あれは……慈悲深くなったのではないわ」
「は? じゃあ何だってんだよ?」
「……おぬしには判らぬか」
 白い顎髭を撫でつけていた和狆は、溜息とともにかぶりを振ると、錫杖と笠を持って立ち上がった。窓の外の通りを見下ろせば、ちょうど刀をかついだ幻十郎が旅籠を出ていずこかへ歩いていくところであった。
「あ! おい、ちょっと待て、ジジイ! 俺も行くって!」
 それ以上しいて山に戻れとはいわず、和狆は巨漢の孫を連れて幻十郎を追った。
 歩きながら、和狆は先ほどの続きを口にした。
「あれはな」
「うん?」
「幻十郎が慈悲深くなったのではないという話じゃ」
「ああ、あれか。……違うのか?」
「違うじゃろうな」
 和狆たちの前方を行く幻十郎の足取りは、きのうと同じくどこかそぞろで、確かに幻十郎らしくはなかった。いつもなら火の入った煙管をくわえ、すさんだ瞳ですべてを冷笑し、睥睨して歩いているような男が、今は視線を地に落とし、夏の終わりの朝風に吹き流されるかのように歩いている。
「あれは……どうでもよいのじゃろう」
「何がだよ?」
「ほかのすべてのことがどうでもよくなってしまうほどに、何かがあやつの心を占めておるのじゃろう。それこそワシらのことも、きのうのやくざどものこともな、今の幻十郎にとってはどうでもよいことなのじゃよ」
「あの鬼みてえな男がそこまで気を取られるってえのは、いったい何なんだろうな?」
「…………」
 いぶかしげに太い首をかしげる骸羅を振り返り、和狆は眉をひそめた。
「……おぬし、本気でそれが判らぬのか? 見当もつかぬというのか?」
「はァ!? だったらじじいにゃ判るってえのかよ!?」
「……ある意味、おぬしは入るべくして仏門に入ったのかもしれぬな。これも御仏のおみちびきか。南無阿弥陀仏――」
「おいこら、ひとりで納得してんじゃねえ!」
 骸羅が顔を真っ赤にしてわめいても、幻十郎がこちらに意識を向ける様子はない。和狆は錫杖の先で骸羅の脇腹を小突いて黙らせた。
 骸羅はいまさらのように居住まいを正し、低い声でいった。
「……けどよ、やっぱこれはこれでいいんじゃねえのか? 理由が何であれ、あの幻十郎がおとなしくなったってんなら、それは世のため人のため、もっといやァ幻十郎本人のためにもなるじゃねえか」
 骸羅のいうのはことももっともかもしれない。つねに人を斬る理由を捜しているような幻十郎が、刃を向けられるまで剣を振るうのを忘れているというのは、確かに世の人々にとっては僥倖であろう。
 幻十郎にしたところで、これまでのようなすさんだ生き方の果てには、いずれ哀れな末路が待っているのは火を見るより明らかだった。ならば、このまま何かに浮かされたように、おだやかに余生をすごしていくほうが、よほどしあわせなのかもしれない。
 だが、その一方で和狆には、その考え方に釈然としないものを感じてもいた。
 そもそも、本来なら幻十郎を破門した時に、和狆が引導を渡すべきだったのかもしれない。いずれこの男の狂気は多くの人々の命を奪う――そんな予感があったにもかかわらず、和狆は幻十郎が山を下りるのを黙って見送った。
 それはなぜだったのか、今あらためて振り返ってみても、和狆にはよく判らない。
 同じ剣士として幻十郎と相対し、みずからが敗れることを恐れたのかといわれれば、それがないとはいいきれないが、どうも違う気がする。
 いずれぶつかるであろう、覇王丸と幻十郎の果たし合いを見てみたかったのかといわれれば、それもないとはいいきれないが、やはり違う。
 何が一番それらしいかと考えてみると、どうやら、おのが手で幻十郎を斬りたくなかったというのが、和狆の素直な心持ちにもっとも近いように思えた。いかに外道に身を落とそうとも、やはり和狆にとっての幻十郎は、数少ない弟子のひとりなのである。
 その幻十郎が、人斬りとは思えぬ覇気のない男になった。何やら深く思い詰めているようでもあり、何も考えていないようでもあり――いずれにしろ、和狆もあのような幻十郎を見るのは初めてだった。
「骸羅よ、やはりおぬしは先に寺へ戻っておれ」
 和狆は集めた浄財と勧進帳を取り出して骸羅に押しつけた。
「おい、本気か? もうほっとけよ!」
「おぬしにまでついてこいとはいうておらんわ」
 今の幻十郎は考えが読めない。和狆は笠を押し下げ、一定の間合いをたもって幻十郎を追いかけた。

      ◆◇◆◇◆

「――幻十郎よ」
 ずいぶん秋めいてきた昼下がりの影を道連れに、和狆はついに意を決して幻十郎に声をかけた。
「――――」
 峠の細い道には、ほかに人影はない。この刻限にこの峠を越えるということは、山中で日没を迎えるということと同義であり、つまりはそのような命知らずはまずいないということなのであろう。
 だが、今の幻十郎はいうまでもなく、和狆も、山犬や狼、野盗といったたぐいのものをいっさい恐れない。はからずもふたりの邂逅を見守る者は西日のほかにはなかった。
「幻十郎よ」
 もう一度声をかけると、幻十郎は足を止めて振り返った。
「久しいのう」
「……御坊か」
 たっぷりと間を置いて返ってきた言葉は、幻十郎にしてはおだやかにすぎる気がした。骸羅以上に師を師とも思わぬ悪口雑言が、この男の当たり前のはずなのである。
「しばらく会わぬうちに……変わったな、おぬし」
「何の話だ……?」
 幻十郎はおのれの変わりように自分で気づいていない。いつもの幻十郎であれば、師弟の再会はもっと刺々しいものになっていたはずである。
 路傍に転がっていた手頃な大きさの石に腰を降ろし、和狆はひと息ついた。
「――たまさか、峠に向かうおぬしを見かけてな。それで声をかけてみたのじゃ」
「ふん……どうやらよほど暇らしいな」
「暇なものか。今も寺の修繕のために浄財を集めておるところよ。たまさか見かけたというたであろう?」
「そのように寺が大事なら、辻に立って念仏でも唱えていろ」
「ワシもそうしたいところじゃが、弟子が迷うておるのを見すごせぬのでな」
「俺が迷っているだと?」
 鼻で笑って幻十郎は瞳を伏せた。
「……なら、人が頼みもせぬのに説教を垂れる御坊に、ひとつ聞いてみるとするか」
「ほっほっほっ。ワシの年の功にもまだ使い道があるか。……で、何が聞きたい?」
「俺の心持ちのことよ」
「おぬしの?」
「女に会った」
 唐突な幻十郎の言葉に、話がどうつながるのか判らず、和狆は首をかしげた。
「女……と?」
「真っ赤な目をした女だ」
「まさか……魔性の者か?」
「知らぬ。あの女が何者であろうと俺にはどうでもよいことだ。――だが、俺に解せぬのは……あの女を見てから、どうにも俺自身が判らなくなったということよ」
「おのれ自身が判らなくなったじゃと……?」
「気づくとあの女のことを考えている。あの女を抱きたいのか、それとも斬りたいのかも判らぬ。あるいはその両方なのかもしれぬが、いずれにしろ、俺の中に、あの女が居座って消えぬのだ」
「そうか……おぬしがのう」
 淡々と呟く幻十郎の言葉に、だが、和狆はさほど驚かなかった。むしろ得心がいって安堵したほどである。無骨者の骸羅には見当もつかなかったようだが、最初から和狆は、幻十郎の変わりようには女がかかわっているだろうと確信していた。
 幻十郎は手にした梅鶯毒を見つめた。
覇王丸を斬らずにはおれぬと思う、あの心持ちに似ているが、さりとて同じというわけでもない。……これは何だ? この何ともいえぬ心持ちは?」
「おぬしのように遊び慣れた男がそれを知らぬとは皮肉なものよな。……よいか、幻十郎」
 白い髭を撫でつけ、和狆は溜息混じりに苦笑した。
「それはな、恋というものじゃ」
「恋……だと?」
 眉をひそめ、幻十郎はしばし和狆を凝視していたが、やがて唇をゆがめ、煙管をくわえてかつての師に背を向けた。
「何をいい出すかと思えば……ついに耄碌したか。聞くだけ無駄だったようだな」
「激しい恋は憎しみにも似ておるというぞ? ほかのことが何も考えられなくなるほどの怒り、憎しみ――人の恋心はそれらとよく似ておるのじゃ。向かうところはまるで逆だが……」
 現におぬしは、ずっとワシがつけたおったことにも気づかなかったほどに心を奪われておったであろうが――そうつけ足したいところを、和狆はかろうじてこらえた。もしそれを口にすれば、幻十郎の怒りが熾き火のようにふたたび激しく燃え上がり、もとの無慈悲な人斬りに戻ってしまうかもしれない。和狆はそれを恐れて余計なひと言を呑み込んだ。
「何ともなやのう、何ともなやのう、人生七十古来稀なり――老いぼれが無駄に生きながらえてどうする……?」
「やれやれ……いいたい放題じゃな」
 小唄を歌いながら山道を歩いていく幻十郎を見送り、和狆は表情を引き締めた。
 これでいい。
 確かにあれは、これまでの幻十郎ではない。いささかその名残があるとはいえ、誰彼かまわず人を斬り捨てていた鬼は鳴りをひそめている。
 そして、もしあのままで生きていけるのであれば、それはとてもしあわせなことだろう。
 だから和狆は、幻十郎をそのまま見送った。やはり我が弟子にみずから引導を渡すようなことは、和狆とてしたくはないのである。

      ◆◇◆◇◆

 ずいぶんと日が傾いてきた。
 吹く風にひやりとしたものを感じないではないが、それも些細なことにすぎない。
「一期は夢よ、ただ狂え――」
 不思議と笑いが込み上げてくる。つい四半刻ほど前に聞いた、和狆のいいようがあまりに滑稽で、それを思い返すと我知らずのうちに唇が吊り上がってしまうのである。
「くくく……夢、か。確かに……くだらぬ――なぁ」
 足元に視線を落とし、時折、笑いに肩を揺らして真っ赤な夕映えに染まる道を歩いていく。
 その時、幻十郎の爪先が大きな影を踏んだ。
「…………」
 ふと顔を上げた幻十郎は、夕日が作り出すあざやかな逆光の中に、大きな赤い鬼の影を捉えた。
 壬無月斬紅郎――。
 鬼の名前が脳裏をよぎった刹那、幻十郎の目は怒りに見開かれた。
「……殺す!」
 幻十郎はかついでいた梅鶯毒を両の手ですばやく握り直すと、大胆に一歩踏み込むと同時に袈裟懸けの一刀を繰り出した。
「どりゃあァ!」
 のちのち振り返ってみても、おそらく生涯で一番の、迷い、ためらいのないすさまじい太刀行きが、大きな影を斜めに両断した。
「――――」
 幻十郎が梅鶯毒を払った時、ごとり、と重い音を立てて地に転がったのは、ひとかかえはありそうな石の塊だった。
 確かに鬼であった――そう思ったからこそ、幻十郎の身体は咄嗟に動いた。もっとあからさまにいうのであれば、幻十郎の身体は頭より先に怯えたのかもしれない。鬼の影に怯えた身体が刀を握らせ、そしてその事実に――牙神幻十郎が何かに怯惰を覚えるなどという、あってはならぬことに対して――幻十郎は怯えをすべて塗り潰すほどの激しい怒りをもって動いた。
 だが、そこにあったのはただの巨石であり、鬼ではなかった。幻十郎の心の隅にこびりついていた壬無月斬紅郎の影と、血のように赤すぎる夕日が、ほんの一瞬とはいえ幻十郎を怯えさせ、巨石を鬼と見まがわせたのであろう。
 そしてそれが、つまるところ、幻十郎を正気に立ち返らせたのだった。
「老いぼれのいいようを丸呑みにするのも口惜しいが……確かに夢であったか」
 刃こぼれひとつない梅鶯毒を沈みゆく陽射しにかかげ、幻十郎はかぶりを振った。
「――もっとも、夢におぼれていようが夢から醒めようが、狂っていることに変わりはないが」
 今もまぶたの裏にはあの女の赤い瞳が焼きついている。
 が、もはや女のことばかりを考えてそぞろになることはない。会えば斬るだろうが、それだけである。
 覇王丸も同じだった。会えば斬り合う。ただ、これまでのように、途中で興が殺がれて水入りになることもないだろう。次に顔を合わせる時が、どちらかが死ぬ時になる――そんな気がした。
「俺がゆるりと眠るには、まずは貴様を片づけねばならぬが――今はちと、酒が恋しい」
 歌うようにひとりごち、幻十郎は歩いていく。
「世間は、ちろりにすぐる、ちろりちろり……」

      ◆◇◆◇◆

 その後、和狆和尚が幻十郎と生きてまみえることは二度となかった。
                                ――完――