とびだせどうぶつの森 QRコード置き場

ここにはおもに『とびだせどうぶつの森』、『GirlsMode4』でネオジオキャラになりきるためのマイデザイン用QRコードやコーディネイト案、それにSNK関連の二次創作テキストなどを置いています。髪型や髪色、瞳の色については『とびだせどうぶつの森』の攻略Wikiを参照してください。

『慟哭のやむ日』

 てのひらについた血を必死にぬぐっている。
 赤い非常灯が明滅し、警報が鳴り続ける無機質なラボの内部には、もはや彼以外に動く者はいない。あたりに倒れた男たちの白衣は鮮血を吸って赤く染まり、清浄なはずの空気も禍々しい死臭に支配されつつあった。

  そんな屍山血河のほとりにしゃがみ込み、ジェープライムは、まだ汚れていない白衣の裾でてのひらの血をこすっている。
 彼はこのジェープライムというコードネームが好きではない。むしろ嫌っている。そんなコードネームで呼ばれるのは、おまえはモルモットなのだと言外にいわれているようで、怒りの衝動を抑えるのに苦労するほどだった。
 それと同様に、クローン体としての製造ナンバーである9999と呼ばれることも――ジェープライムと呼ぶのを避けてこちらを使う研究員もいたが――やはり彼は好まなかった。それは、彼がプロジェクトの唯一の“成果”として結実するまでに、一万人近い“兄弟”たちが死んでいった事実を思い起こさせるからだった。
 だから彼は、いつしか“ネームレス”――名なしと呼ばれるようになった。一種の愛称だが、コードネームや番号で呼ばれるよりははるかにいい。
 最初にそのネームレスという愛称で彼を呼んだのは、それこそこの研究員ではなかったか――ネームレスはそのことを思い出そうとして、すぐにやめた。たとえそうだったとしても、彼がやることに変わりはない。
「…………」
 ネームレスは研究員のてのひらについていた血を綺麗にぬぐうと、彼の身体を引きずってラボの最奥部へと向かった。地球圏へ来て以来、このラボで幾度となく実験に協力してきたネームレスも、この頑強な特殊合金製の扉の向こうへ入ったことは一度もない。
「よ、よせ……」
 ネームレスがIDカードをスキャンさせていると、ぐったりしていた研究員がかぼそい声をあげた。
「ここに、彼女は、い、いない――」
「まだデイモスにいるというつもりか?」
「それは……っごふっ」
 研究員は苦しげに咳き込み、あらたな血を吐いた。だが、ネームレスの手は止まらない。
「俺はあの子を地球に連れてこいと要求したはずだ。俺が大会に出場する条件として」
「ま、まだ任務は終わっていないはずだ……ゼロさまが敗北した今、K’たちを倒すのは、お、おまえの役目なんだぞ? なのに、なぜ見逃した? 連中がシャトルを降りてきた時に、なぜ仕掛けなかった……?」
「そういう気分じゃなかっただけだ」
「お、おま……貴様、う、裏切るつもりか――」
「これまでずっと裏切られてきたのは俺のほうだ」
 上層部の指示にしたがって任務を遂行すれば、ふたたび彼女と暮らせる――それをエサに、ネームレスはいくつもの任務をこなしてきた。しかし、組織はいっこうに約束を守ろうとはしなかった。
「――大きな取引の前には、まずは現物を確認するものだろう? 俺もそうさせてもらうだけだ。彼女が本当にここにいるかどうかをな。彼女がいるとはっきり判れば、すぐにでも奴らを始末してやる」
 組織にネームレスとの約束を守るつもりがあるのなら、彼女はこのラボ――彼が唯一確認できなかったこの奥にいる。
「だが、もし彼女がここにいないのなら……おまえたちはまた俺をだましていたということになる」
「よ、よせ、やめろ……!」
 弱々しい抵抗を無視し、ネームレスは研究員の手をセンサーの上に置いた。よほど重要な機密があるのか、この奥へ進むには、一部の研究員だけが持つIDカードに加え、彼らの掌紋と声紋、網膜パターンによる三重の生体認証をクリアしなければならない。
「こ、後悔するぞ……かな、らず」
「後悔ならもうしている。……もっと早くこうすべきだった」
 ほとんど死にかけている研究員を強引に引き起こし、網膜認証と声紋認証をクリアしたネームレスは、ためらうことなくロックを解除した。
「……?」
 隔壁と呼ぶのがふさわしい、厚みのある重金属の壁がせり上がっていくのと同時に、濃い血臭を押し流すかのように、肌を刺す冷気が奥のほうから流れ出てきた。床や壁にまたたく間に薄い霜が張り、吐く息も白く変わっていく。
 すでに物言わぬ屍となった研究員を放り出し、前へ進もうとしたネームレスの足が、まるでその冷気に圧されたかのように動かなくなった。
 ほんの少し前まで、どんな犠牲を払おうともこの奥にある真実を確かめずにはおかないと誓っていたはずなのに、今はその決意が鈍り始めている。ネームレスの唇がかすかに震えているのは寒さのためではなく、まぎれもない恐怖のせいだった。
 この隔壁を開くため、非協力的な研究員たちを眉ひとつ動かさずに戮殺してのけた若者が、この先に待つ事実におびえ、震えているのだった。
「……!」
 思わずうつむいたその時、ネームレスの目に、おのが腕にはめた青白いカスタムグローブが映った。
 このグローブがなければ、ネームレスに移植された“草薙の炎”はたちまち彼の意志を無視して暴れ出し、ネームレス自身をも焼き尽くすだろう。炎を刃、グローブを鞘に見立てた居合のような特殊な格闘術は、“草薙の炎”を実戦に応用するためになるべくしてなったものだった。
 そのグローブが、何かに共鳴するかのように、甲高い音を立てていた。
 ネームレスは咄嗟に左手でグローブを押さえ、唇を噛み締めて前に進んだ。
 無機質なということでいえば、ここもあちらのラボとそう大差はない。が、ここには白い光があふれていた。ちょっとしたドームのようながらんとした真白の空間に、ただひとつ、四角いケースが横たわっている。
 長さはおよそ二メートル、幅一メートルほどか、サイズ的に棺を連想させる、表面を霜でおおわれたケースだった。
 ネームレスはよろめくように一歩一歩ケースに近づいた。
 いつの間にか心臓が早鐘のように鳴っている。頭のどこかに今すぐ引き返せと叫ぶもうひとりの自分がいた。相反する思いが枷となって彼の歩みを遅くしていたが、しかし、それでもついにネームレスは、氷と見まごうような白いガラス張りのケースのもとへとたどり着いた。

 彼の慟哭を聞く者は誰もいなかった。

      ◆◇◆◇◆

 激しい痛みと衝撃に、大きくはじき飛ばされたK’の意識が一瞬遠のいた。
「……世話を焼かせるなよ、相棒」
 後頭部から壁に叩きつけられる寸前、K’の身体を受け止めたマキシマは、血のにじんだ口もとを小さな笑みに吊り上げた。
「いちいちうるせえよ」
 軽く頭を振って立ち上がったK’は、窓の外の虚空に浮かぶ青い星を一瞥し、ふたたびイグニスに向き直った。
 鋼鉄の蛇を思わせる細長い刃が、鎌首をもたげてK’たちを威嚇している。鋭利なその縁を赤く濡らしているのは、ほかならぬK’たちの流した血だった。
「こいつはどうにも厄介だぜ……」
 マキシマは眉根を寄せて溜息交じりにぼやいた。
 イグニスがまとうバトルスーツには、彼の意志を受けてあらゆる敵を攻撃する一種の生体兵器が内蔵されている。マキシマよりも動きの速いK’はもちろん、あのクーラ・ダイアモンドでさえも、その刃をかわしてイグニスの懐に入り込むのはほとんど不可能に近かった。データがあればまだ対処のしようもあるが、さすがのマキシマも、初めて相対するイグニスについてのデータは何ひとつ持っていない。
 マキシマは自身の内部機構の自己診断をしながら、K’にいった。
「……どっちにしろ、おたがいそう長くは戦えそうにないな」
「ああ……俺もいい加減うんざりだぜ」
 血の混じった唾を吐き捨て、K’は舌打ちした。
「なぜそうまでしてあがくのだ、我が愛し子らよ……」
 いまだに傷ひとつ負っていないイグニスは、K’たちを超然と睥睨し、いっそおだやかともいえる口調で問うた。
「もっとも強き者が誰であるか、すでに証明はなされた。我こそ最強……すでに勝負が決した今、なぜ無駄に苦しもうとする?」
「……誰が最強だと?」
 サングラスを押し上げ、K’はゆっくりと首を回した。
「――てめェ、目が悪いんじゃねえのか? 俺にはまだ誰ひとり倒れちゃいねェように見えるがな」
「確かにおまえたちは倒れてはいない。……が、ただ倒れていないだけだ。もはや戦う力は残っていまい?」
 そう呟いたイグニスの顔のそばで、氷が砕け散る音がした。
「……わたしは負けない」
 膝に手を当ててかろうじて立っていた少女が、指先に集めた冷気を氷の礫に変えてイグニスに投じ、それをあの鋼の蛇が瞬時に叩き落としたのだった。
「健気を通り越して哀れでさえあるな……」
 わずかに散った氷のかけらを優雅な仕種で払い落とし、イグニスは嘆息した。
「あなたになんかクーラは負けない! 負けないんだから!」
 少女が大きなモーションから両手を床にたたきつけると、そこに集まった冷気がイグニスに向かって走り、龍の牙を思わせる巨大な氷の刃となって伸びていった。
「いいだろう……やすらかな眠りではなく、あえて苦痛に満ちた最期を望むというのなら、それをかなえてやるのがせめてもの慈悲というものだ」
 おそらく今のクーラの渾身の一撃を、イグニスは平然と受け止め、それどころか少女に向かって悠然と歩いていく。それを見て、マキシマとK’はほぼ同時に駆け出していた。
「てめえ、こっちは無視かよ?」
「そもそも、可愛い女の子を苛めるなんてのは、自称神サマにふさわしい所業とは思えないんだがね」
「おまえたちを生み出したのはこの私だ……ならば、おまえたちの死もまた私がつかさどるべきもの。誰がいつ死ぬかは私が決める」
「!」
「ぐっ……!」
 イグニスのバトルスーツの長い裾がひるがえり、ふたりを同時にはじき飛ばしていた。イグニス本人の強さか、あるいは生体兵器の防御システムによるものか――いずれにしろ、今のイグニスに死角はないのかもしれない。
 しかし、マキシマがそう思った次の瞬間、彼のセンサーが、この最終決戦の場に、五人目の戦士の存在を感知していた。
「……なら、おまえがいつ死ぬかは俺が決めてやる」
 クーラの首に手をかけようとしていたイグニスの脇腹に、白い貫手が突き刺さっていた。
「……今だ。おまえは今すぐに死ね」
 まるでイグニス自身の影の中から染み出てきたかのように、そのかたわらに、黒ずくめの若者がいた。
「あの野郎――」
「確かここへ来た直後に会ったな……」
 マキシマたちがこの要塞に到着し、ゼロを倒してスペースプレーンを降りた際、彼らの前に姿を見せた若者だった。
 あの若者に関するデータもまた、マキシマにはほとんどない。判っているのは、彼がネスツの改造人間のひとりであり、おそらく草薙京のクローンかそれに類する存在だということ――それにネームレスという名で呼ばれていることくらいだった。
 K’は大きく肩で息をしながら立ち上がり、いぶかしげに眉をひそめた。
「……組織の人間じゃねェのか、あいつは?」
「組織の人間ていってもいろいろいるだろ? 俺たちみたいなのもいるんだからな」
 肩をすくめ、マキシマは苦笑した。
 ただ、ネームレスがここに現れ、そして自分に牙を剥いたという現実は、イグニスにとっても想定外のことのようだった。
「毛色の違うモルモットがもう一匹……か」
「がっ!?」
 イグニスの袖口から伸びた鋼の蛇がネームレスの身体に巻きつき、その全身を斬り刻みながら投げ飛ばした。
「K’を超える可能性に賭けて送り出してはみたが……見込み違いだったようだな。まさか敵前逃亡した上に私に歯向かうとは。――さては知ったのだな、真実を?」
「ぬ……くっ――」
 あおむけに倒れたネームレスは、首だけをもたげ、イグニスを見据えている。おそらくクリザリッドが使用していたものと同等のはずのバトルスーツが、ずたずたに引き裂かれていた。
「お、俺の……イゾルデを――」
「おまえのものではない。すべてのものは私のもの――おまえも、あの少女も、K’たちも、すべて私のもの……なぜなら私こそがおまえたちの造物主、神なのだから」
 イグニスは傲然といい放った。どうやら脇腹の傷はさしたるダメージではないらしい。
「……うるせェな、おい」
 イグニスの意識がネームレスに向いているわずかな間、静かに呼吸を整えていたK’は、いつものようにかったるそうに、背中を丸めて歩き出した。
「さっきから神だ神だってうるせェんだよ……てめェは口ゲンカで勝負してェのか?」
「…………」
 イグニスが目を細め、わずかに左手をかかげる。そこから強靭な刃の鎖が伸びてK’を襲った。
「俺たちを作ったのがてめェだろうが誰だろうが、変わりゃしねェんだよ。……てめェがムカつく野郎だってことはな」
 頬の皮膚を一枚斬らせるだけのギリギリの間合いでイグニスの刃をかわし、K’は赤い拳を握り締めた。
「ムカつく野郎だからブン殴る……それ以上の理由がいるか? それをてめェはごちゃごちゃ御託ばっか並べやがって――」
「……確かにな」
 マキシマは両腕に装着されているランチャーの残弾数を確認した。残りをすべて同時に使用すれば、マキシマの鋼のボディにも深刻なダメージが跳ね返ってくることは目に見えていたが、その計算結果をマキシマは無視することにした。マキシマがここにいるのは親友を殺したネスツに復讐するため――その首魁が目の前にいるのに、戦いのあとのことを考える必要などない。K’がいうように、戦う理由はシンプルなほうがいい。
「わたしは……あなたがキライ」
 泣きそうな顔でクーラが呟く。K’と同じくらいに判りやすい理由だった。
「ふ、はは……ははははは……」
 床で大の字になっていたネームレスが、かすれがちの声で笑い出した。
「おいおい、この状況で笑うなよ。緊張感がないな、おまえさん」
 そういうマキシマも笑っている。K’やクーラの口もとにも不敵な笑みが浮かんでいた。
 ただひとり、憮然として立ち尽くしていたイグニスが、大きな溜息とともにいった。
「神の降臨が決定的となった今、すべては些末なことだ。……淡い記憶を抱いて消えいくがいい!」
「……もうそういう流れじゃないって判らないのか? 意外に血のめぐりが悪いんだな」
 ダメージを感じさせない動きで跳ね起きたネームレスは、そのまま低い姿勢で走り出した。呼応したわけではないだろうが、ほぼ同時にK’とクーラも、それぞれに別の角度からイグニスに向かって走っている。
「はかなく散れ!」
 イグニスのバトルスーツの裾や袖口から伸びた蛇腹の槍が、K’たちに向かって神速の速さで伸びる。やはりこの男に死角はないのかもしれない。
「最初から俺は頭数に入ってないのかもしれんが、いくら何でも驕りすぎだぜ、あんた。――おい、悪いがおまえさんたちを巻き込まずにぶっ放すのは無理なんでな! そっちで勝手によけてくれ!」
 一方的にいい放ち、マキシマは両腕に残された火力を一度に解放した。
「いまさらでしゃばるな! K’をここまで連れてきたことで、おまえの役目はもう終わっているのだぞ――」
 マキシマが頭の中でトリガーを引くより一瞬早く、イグニスは銀の蛇を手もとへ引き戻した。その先端からほとばしるまばゆい閃光が、マキシマが撃ち込んだ無数の炸薬弾を次々に誘爆させていく。
「ぐっ……!」
 両腕にかかる負荷と激しい爆風に、マキシマの巨体がかしいだ。だが、口もとの笑みは消えない。
 イグニスが守勢に回ったその一瞬――ほんの数秒の間に、爆炎を突っ切ってイグニスに肉薄する若者たちの影を見届けたからである。

      ◆◇◆◇◆

 流星が降りそそぐ夜、何も知らない恋人たちは、窓越しに空を見上げて願い事でも唱えるのだろうか。あるいは手を取り合って快哉をあげながら外へ飛び出すのか。
「…………」
 だが、無数に流れ落ちる星のかけらを掴もうとしたネームレスの腕は、もうほとんど上がらなかった。右目の視力もほとんど失われている。体温が下がり始めているのが自分でも判った。
「……本当に後悔しないのね?」
 頭上から降ってきた女の声に、ネームレスは緩慢な動きで視線を上げた。
「うちの子たちを助けてもらった恩があるから、たいていの頼みなら聞いてあげたいけど――」
「誰が助けてもらっただと?」
 不機嫌そうに吐き捨てたK’は、細い煙を立ち昇らせる右手をかかえ、もそもそとビーフジャーキーを食べている。カーゴルームに点々と赤い足跡を残しているが、まだ止まらないその出血を考慮に入れても、まだネームレスよりは軽傷だった。
「彼がいたからイグニスを倒せたんでしょ? 違うの?」
「……チッ」
「…………」
 ネームレスはK’から視線を逸らし、もう一度ウィップを見上げた。
「……かまわない。やってくれ」
「ですって」
「ま、おまえさんの人生だしな」
 片足を引きずるようにしてやってきたマキシマは、太い腕でネームレスをかるがると持ち上げ、ガラスケースの中で眠る彼女の隣へと横たえた。崩壊していくエイダスからこのケースをスペースプレーンに積み込んで脱出できたのは、この巨漢のサイボーグがいればこそだった。
「ねーねー、この人だぁれ?」
 ケースの中を覗き込んでいたクーラが、誰に尋ねるでもなく聞いた。
「……イゾルデだ」
 全身の感覚が消えつつある中、ネームレスは静かに深呼吸し、少女の手を難儀しながら握り締めた。
「イゾルデ? イゾルデってちょっとクーラに似てるー」
「他人の空似よ」
 真実を知ってか知らずか、ウィップはそういって、手もとのタブレットに指をすべらせた。アクチュエーターの稼働音とともに後部ハッチが開き、カーゴルームに冷ややかな風が吹き込んでくる。
「外気温はマイナス二二度か……この時期の北極にしては暖かいほうなんだろうな、これでも」
「冗談じゃねえ。……俺はコクピットに戻るぜ」
 逸早くカーゴルームから立ち去るK’の背中が、一瞬だけ、ネームレスの位置からでも見えた。この先、世界中の諜報機関から追い回される日々が始まることを知りながら、その背中には悲壮感のようなものは微塵もない。よくよく考えてみれば、彼と自分とはどこも似ていなかった。
「ねーねー、何がおかしいの?」
 怪訝そうにこちらを見つめる少女にいちいち説明するのが面倒臭くて、ネームレスは小さく微笑んだまま目を閉じた。
「……あんたたちだって時間はないんだろう? 早くやってくれ」
「そうだな……エイダスの破片にまぎれて大気圏に突入したとはいえ、それで完全にレーダー網をかいくぐれたって保証はない」
「隊長ならいずれここを突き止めるわ。早く離脱しないと」
「ってわけだ。お嬢ちゃん、出番だぜ」
「でも……ホントにいいの?」
「彼が――ふたりがそう望んでるのよ」
「じゃあやるね」
 あっけらかんとしたクーラの声と同時に、ネームレスの全身を初めて経験する冷気が包み込んでいった。

      ◆◇◆◇◆

 マキシマによってドロップゲートから押し出された氷漬けのケースが、冷たい海へと沈んでいく。クーラの肩を抱いてそれを見つめていたウィップは、風になびく髪を押さえて呟いた。
「このあたりの水深は約四〇〇〇メートル……いったん沈んだら、地殻変動でも起きないかぎり、もう二度と日の目を見ることはないわね」
「それがあいつの望みなんだろ。……もう閉めるぜ」
「ええ」
 ハッチが閉ざされ、カーゴルームに暖かさが満ちてくる。ウィップはクーラをうながしてコクピットルームへ向かった。
「……用事がすんだんならさっさとずらかろうぜ」
 限界まで寝かせたシートにもたれて天井を見上げていたK’が、かったるそうにいった。
「まだよ。ちゃんと沈んだことを確認しないと。……海中の音、拾える?」
「潜水艦のソナー並みの感度は期待しないでくれよ?」
 少し窮屈そうにパイロットシートに座ったマキシマがコンソールを操作する。やがてスピーカーから、かすかな雑音交じりの泡の音が聞こえてきた。
「ぶくぶくいってるー」
「深度二〇〇をすぎたところか……静かな暗い海の中をまっすぐに沈んでってるぜ。順調にな」
「すごーい! ぶくぶくだけでいろいろ判っちゃうんだね、おじさん!」
「……おじさんはやめてくれ」
「あ! ちょっと待って、おじさん!」
 突然、クーラが目を丸くしてスピーカーに耳を押し当てた。
「何か聞こえる……誰か泣いてるのかな?」
「何?」
「ほら! うわーん……って遠くで誰か泣いてる。さっきの人かな?」
「いや……こいつは人の泣く声じゃない」
 ボリュームを微調整しながら、マキシマはスペースプレーンのエンジンに火を入れた。
「こいつはな、クジラの歌声だ。ホッキョククジラかな?」
「クジラ? あのおっきい魚のこと?」
「……そういうことにしておくよ。哺乳類と魚類の違いを説明するのは面倒だからな」
「クジラさんがいるならあの人もさびしくないね」
「そうね」
 気休めの言葉を気休めと気づけない、少女の幼さがウィップにはありがたかった。
 残り少ない燃料を使って、スペースプレーンが静かな波間を離れて上昇に転じる。クーラは窓に顔を押しつけるようにして、真っ暗な夜の北極海を見下ろしていた。
「ばいばい、イゾルデ。……あと、クーラが名前を知らない人」
 クーラのその言葉に、ウィップはそっと瞳を伏せた。
 集音センサーは、まだクジラの歌声を拾い続けている。どこか哀切なその響きを子守歌代わりに眠りに就いたふたりは、それはそれでしあわせなのかもしれない。
 もはや死でさえもふたりを分かつことはできないのだから。
                                ――完――